出発 (2010.7 同時座談会提出作品)

 母が飛行機の操縦席に座って、エンジンを掛けた。プロペラがブーンと軽快な音を立てて回り始め、機体がふわりとゆらぎ、車輪から荷重が抜けたのがわかった、滑走もしないまま微かな揚力が発生している。飛行機はマンションのユニットバスの中でホバリング状態に入った。広めではあるが、あくまでユニットバスなので、天井と床の間の1.5メートルほどの間に、飛行機は浮かんでいる。 Continue reading 出発 (2010.7 同時座談会提出作品)

死体との午後

日曜の午後、ベッドに転がって「りぼん」を読んでいたら、お母さんがやってきた。「お友達が来たわよ」と言う。恭子ちゃんか真理ちゃんかな、と思いながら「だれ?」と聞くと、お母さんは変な顔をして、「男の子」と答えた。わたしはびっくりして起き上がった。一瞬、隣のクラスのミヤザキ君の顔が浮かんだけれど、そんなはずはない。ろくにしゃべったこともないんだし。それでも軽くドキドキしながら、「だれ?」と重ねて聞くと、「大河くん、って子」という答えが返ってきた。

Continue reading 死体との午後

アヒルに乗ったウサギの話

ホテルの一階の喫茶室の椅子は見た目よりも深くて柔らかく、座った途端に京子はひっくり返りそうになった。空中で脚をばたつかせてバランスを取り戻し、スカートの裾を直しながら座り直す間、給仕は表情を変えずに傍に立っていた。

「コーヒー、お願いします」

「かしこまりました」

ホテルマンは客の経済状況を瞬時に見抜くという話を聞いたことがある。京子は横皺の目立つ流行遅れのパンプスと、高そうな椅子の上で所在なげな毛羽だったコートを眺めやる。こういうところでは上着は預かってもらえるものではなかったかしら。預けるときにはこのコートを互いに否応なく意識することになるから、思いやりからこういう古ぼけた安物には構わないのかもしれない。そう思って京子は自分の身なりを恥じた。

Continue reading アヒルに乗ったウサギの話

医学生A君の話

怖い話っすか? オバケ系とか? んならないっすね。つうか、自分、霊とか見える系じゃないし。中坊ん時肝試しとか言ってわりと心霊スポットとか行ってたんすけど、マジなんもなかったし。元カノが見える系っつうかそういう感じで、白い服の女がいたとか、なんか肩が重いとかっつってましたけど、話盛《も》ってるだけじゃね?って感じで。俺そんとき、なんも出なすぎてムカついてお地蔵さん蹴っ飛ばしたんすけど、祟りとかそーゆーのなんもなかったすもん。ツレはお前マジ呪われんぞってビビってたっすけど。そのあとガリガリ君当たったし。むしろ運良くなってね?的な。え? いや、その元カノとは大学入ってから会ってないっす。そんときのツレもなんかバラバラっつうか。大体そんなもんじゃないすか。

Continue reading 医学生A君の話

クリスマス

チャイムの音で目が覚めた。

布団から出たくなかったけれど、きっとAmazonに予約注文していた「ファイナル・デッドコースター・2ディスクスペシャルエディション」が届いたに違いない。身を縮めながらドアスコープを覗くと、箱を抱えた人影が見えたので、細目にドアを開けた。

するとそこにはクリスマスが立っていた。

Continue reading クリスマス

待合にて

 吹きさらしのホームの真ん中に、ガラスの箱が立っている。キャラメルを横にしたような形で、短い方の一辺に自動ドア。中に入ると、床は光沢のある灰色で、三方の壁際には赤いプラスティックの椅子がぐるりと取り付けられている。椅子は背もたれの部分で壁に取り付けられているので脚はなく、まるで床から六十センチの高さにずらりと浮かんでいるように見える。

 そして、長いほうの辺のちょうど真ん中に、親子が座っている。思春期の娘と、その父親。父親は青年のようにも見えるが、くっきりと刻まれた法令線と、白髪の量は無視できない。娘は襟だけが白い紺色のワンピース。長い髪の上半分だけをべっ甲色の髪留めで後ろに引き詰めている。父親は、焦茶のジャケットに、ボタンダウンシャツ。色あせたリーヴァイスの膝が抜けかけている。シャツの柄は白と水色のストライプ。箱の中は暖かく、二人のコートは傍らの空席に置かれている。箱の中にも、ホームにも、他に人影は見えない。

Continue reading 待合にて

北ウィング

成田空港の到着ロビーはいつも淋しい。男は税関を抜けると、自動ドアを通して灰色に曇った車寄せを見た。びたびたと雨が落ちていた。七月。そうだ日本は梅雨だ。ひゃあ、寒い。前後して到着したグアムからの便の一団が、短パンの脚をすり合わせて声を上げるのが聞こえた。

日本を出るときに飼い猫を含めたほとんど全てを処分し、また向こうでで手に入れたものもほとんど持ち帰らなかった男の所持品は、くたびれたアルミのスーツケースにすべて収まっていた。虐げられたスーツケースと、パスポートと、両替できなかった小銭と。それが今の男の全てだった。他には何もなかった。ロビーと呼ばれる廊下のような空間に、大小様々なキャスターの音が響く。リムジンバスの発着所へ急ぐ人、駐車場の名を横腹に付けたマイクロバスに乗り込む人、両替所へ並ぶ人。誰もの顔が現実に引き締まっていて、ほんの一階上の出発ロビーを満たす、皮膚から一枚浮いたような高揚感はここにはない。真ん中で立ち止まっていた男に、後ろから誰かがぶつかって舌打ちをした。慌ててどこかへ動こうとして、何の指針もないことに思い当たり、男は苦笑いをした。

Continue reading 北ウィング

酔いを売る

ビール一杯の酔い心地で外に出た。空気は清潔なシーツのようだった。乾いてひいやりとしている。月がぽかりと浮かんでいた。冴え冴えと白い秋の月だった。男は片手でネクタイを緩め、満ち足りた猫のように溜め息をついた。意識はしっとりと霞んでいた。頭は水を含んだスポンジのようで少し重く、しかしそれは少しも不快ではない。胸のあたりがじんわりと温かかった。男は幸福だった。俺は世界を手に入れたぞ。呟いて、くつくつと笑った。手中にした世界はどうやら魅惑的な女ででもあるようだった。抱きしめて撫でさすり、甘い声を上げさせたかった。

男は久方ぶりの大きな仕事を終えたばかりだった。胸のポケットには、ちょうどいい厚さの札束が収まっていた。こいつは素敵な相棒だ。余計なことは何も言わないし、付き合いやすくさりとてなかなか頼りがいがある。男は道々何度もそうしたように、ジャケットの上から札束を撫でた。心休まるかたちがすぐに答えた。これほど誠実でこれほど愉快な道連れがあるだろうか。男は口笛まじりに首を巡らせた。

閉じた瞼のようなシャッターが並ぶ中に、ぽつんと明かりを灯す店があった。濃い蜂蜜色の暖かな明かりに、ショーウィンドウがぼんやりと照らされていた。客の入りを待つ舞台のようだった。男はふらりとその前に立った。

Continue reading 酔いを売る

或る画家 (2009.8.4 同時特別企画提出作品)

1.
オーク製の頑丈な木枠に、鈍く光る鉄釘で、上等の画布が張られていく。男は小柄だが頑健そうな背中を床に屈めて、トントントンと、軽快な槌音を、小さいながらも天井の高く快適そうなアトリエに響かせている。アトリエの木の床には、まだ荷をほどかれていないダンボールがいくつか転がっている。3階建てのビルの一階に越してきたばかりのこの画家は、この10年間ずっと暖めてきた大作に、ついに取り組むことに決めたのだ。
Continue reading 或る画家 (2009.8.4 同時特別企画提出作品)